みずたまらいふ

生活のメンテナンス

思考停止と喪失への不安に気がつく。

絶賛継続中です。最初は、捨てればいいんでしょ捨てればいいだけ!と思っていたら、そうでもありませんでした。

片付けられない

使ったらしまうという単純なことが昔からできませんでした。悪いことに、親がしまうのが得意な人だったのですね。で、よく怒られていました。母のそれはとてもハードルが高いのです。「扉を開けて、引き出しを引いて、前のものを抑えて奥にしまう」的なことを難なくやるわけです。そもそも片付けが得意でないし、子供だしで、なかなか要求に応えることができませんでした。

きれいな理想の状態は、母が実践しているので状況が分からないわけではない。一つの引き出しをキレイにきちんと整理することは時間と心の余裕があればできる。どうして自分にはできないんだろう。

で、自分がずっとダメなやつだと思って生きてきたのだけど、まあそれはそうなんだけど、どうもそうではなくて、そういうのが得意な人と得意じゃない人が存在するだけ、ということが分かってきたわけです。きっかけは多分、『片づけられない女たち』だと思う。

ある時、片付かないのは「物が多すぎて手に負えない」からだと思い当たりました。なぜこんなに多いのか。別に買い物が趣味ではない、本は買うけど、それ以外のものに対する執着はそれほどないはず。それほどものが増えるはずがないのになぜだろう?

 

なぜものが多いのか?

単純に、物が多いのは、捨てないことと、もらい物を断れないからです。「貰う」行為は相手を喜ばせるので、私は基本的には断れません。逆の立場で断られると残念な気持ちになることもあるので、くれるというものは基本的に貰います。これを続けているとものが溜まるのです。

家系が商人だったせいもあり、なんでもかんでも「もったいないからとっとこう」と考えてしまう。使えるものは捨てない、いつか使うから捨てない。つまり、「捨てないから減らない」「貰える物は貰う」根性が、現状を呼んでいるのです。

と思っていました、今までは。

 

「取りあえず」の思考停止

よくよく考えると、いやしかし、そういう人は多いハズ。買い物ももらい物も、普通に誰もがしています。もったいないとも思うはず。なぜ人のうちは散らかってなくて、うちは違うのか?

ところで、私には捨てることがとてもしんどいのです。整理に着手していても、いつも、これは迷うから「とりあえず」とっとこう、とか、疲れたから「とりあえず」ここまで、とか考えていることに気が付きました。これは思考停止の習慣ではないか。

自覚できないほどナチュラルに、あとでいいや、取りあえずいいや、と考えているのだと気が付きました。

それと、執着。自分にはそれ程、ものに対する思い入れはないのですが、手放すことにはかなり抵抗があると自覚しました。喪失が怖い

 

行動あるのみ

この記事を書きながら何度も中座してはそこらを片付けています。「とりあえず」をやめるには、思いついたら即行動の習慣をつけていくしかないのです。喪失は恐ろしいけれども、向き合っていかなければなりません。

そう簡単には直せないけれど、断捨離を続けていけば、ある程度までは矯正されると期待しています。実際のところ、怠けつつも続けていると、以前より捨てる判断は早くなりました。